【みんな】

 

 

 

 

「いわれてみりゃそうですね。それは考えつかなかったなあ。不思議には思ってたんですよ。ボクシングの練習っていったら、ふつうジムでやるもんじゃないですか。辛気くさい部屋のなかで、器具もなにも使わずに丸裸で絡みあってるだけなんすから。おれ見てるうちにいらついてきちゃって、まじめにやりましょうよ! って提案したんですけど、そいつら聞いてなくて、しつこく足を掴んでくるもんだからよろめいた拍子に誰かの顔を踏んじゃったんです。さすがに怒りだすんじゃないかって首をすくめたとたん、そいつおれの足を力いっぱい自分の顔に押しつけたもんだから、とっさに重心をもうかたほうの足に移そうとしたんですけどそっちの足もべつの奴の顔に乗ってて、驚いて飛びのいたら着地した地点が残りのひとりの尻の上でして。あとはもうわやくちゃ。無重力空間に浮かんでるみたいな、母胎のなかで羊水に浸ってるみたいな、心細さと恍惚感のハーモニーで、汗くさくて生温かいそいつらの身体が、踏んでも踏んでも力をゆるめずに押し返したり絡みついたりしてくるもんだから、しまいには気が遠くなってきましたよ。そういやこないだ従妹に子どもが生まれたんですけど、いってましたよ。いち日じゅう眼が離せないうえに夜も何時間かおきに起きなきゃならないし、すさまじくエネルギーを奪われるんだけど、たとえばおっぱいをせがんでるときの子どもってのは、おむつ一丁で大の字になって手足ばたつかせて食い物を要求してるおのれの姿を客観的になんて見れないわけで、大人だったら誰しも持ってるはずのブレーキがまったくはずれてる存在のいいなりになって右往左往してる状態は、まあいわば世間の目とかを気にしてちまちま暮らしてる日常の掛け金がこじ開けられてそこから悪魔が入りこんでくるみたいな、すごく気の利いたいたずらの共犯者になってるみたいな、すごい開放感に浸れるんじゃないかな。そんなふうにおれも、屈強な奴らに求められるまま、顔を踏んでやったり、洗濯ロープで首を絞めてやったり、四つん這いになった奴の上にまたがって定規で尻を叩いたり、並んで口を開けてる三人の顔に小便をかけたり、安っぽい整髪料やら香水やら汗のにおいやらのこもった男くさい部屋のなかで、メシも食わないで真っ暗になるまでそんなことをつづけてるうちに意識が遠のいていったみたいです。手足の先が剃刀で短冊みたいに切り裂かれてるんじゃないかっていうような激痛に飛び起きるまで、そのまま何時間かうとうとしてたみたいで。身体じゅうびっしょりだった汗が引いたせいか、猛烈な震えがきましたよ。そのへんに散らばってた服をとりあえずかき集めて着こんで、あちこちさすりながらうずくまってるうちに、ドアの下から、隣の部屋の明かりと一緒に低い話し声も漏れてきてるのに気がついたんす。三人とも酒が入っててもうかなりできあがってるみたいで、いまの仕事してなかったらなにしてました、なんて聞かれて、ブン屋だよって答えてる奴がいたり、好きな食べ物ってテーマで演説ぶってる奴がいたり、そのあいまあいまに聞こえてくる話を継ぎ接ぎしてやっと状況がみえてきました。そいつらとおれとは、やっぱりなんの関係もなかったんです。おれにアプローチかけてきたのは、新宿二丁目のなんとかいうバー、たしかハッテンバとかいってたかな、そこで知りあった友人に頼まれたからだってなことをいってるんです。その友人ってのは、レンタルDVD店で働いてたんだけど、担当した客が何人もDVDを延滞したまま行方をくらますってことが相次いだとかで、責任とって辞めることにしたんですって。辞めたところでDVDが返ってくるわけじゃなしって、そいつらもいってましたけど、ほんと潔癖な奴なんでしょうね。しばらくして街なかを歩いてて借り逃げした客のひとりをたまたま見かけたときにはあとをつけて、郵便局の振り込み用紙を盗み見て住所と名前と電話番号をつきとめたあげく、何週間もつきまとって聞きこみ調査を重ねて、相手の行動半径から交友関係まで割りだしたんですって。家族にも友だちにも内緒で、なんとかいうアイドルのコンサートに夜行バスで行こうとしてるって情報がそのうち飛びこんできたもんだから、そいつがチケットを買ったバスのでる何分か前にバス乗り場に電話して呼びだして、屈強なやつらに襲撃させようとしたらしいんすね。ようするに、ビデオを借り逃げしたせこい客と、おれ同姓同名だったってわけです。で、連れてかれて、屈強なやつらの気まぐれなのかなんなのか、ボクシングかなんかの練習相手をさせられた、ってことを知っちゃうと、そりゃあ気分悪くなりましたよ。短いあいだだったけど男どうし裸のつきあいをして、そこはかとない感情を交換したはずなのに、その動機がこんなに不純なものだったなんて。裏切られた気がして、おれ玄関に突進しました。わざと音たてながら。でも誰も追っかけてこないんすよ。がっかりでした」

 

 

 

つづく

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